ガンジーの「非暴力」

先日、ガンジーの『わたしの非暴力』を読みました。ガンジーは、インド独立の父と言われ、非暴力の運動によってイギリスからの独立に貢献しました。インドではガンジーの誕生日の10月2日は、インドでは全国の祝日となっています。

 

日本で「非暴力不服従運動」と言うと、一般的にとても良いイメージが持たれています。しかし世の中の人みんながガンジーの本を真剣に読んだら、賛否両論に分かれるのではないかと思います。

「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている」

という文章で始まるこの本は、想像以上に過激で興味深い内容でした。ガンジー曰く、非暴力は暴力よりも優れているけど、暴力も臆病に比べれば良いそうです。例えば、これを高校生の日常生活に当てはめて考えるとどうなるでしょうか?

 

例えば、「茶髪禁止」という校則のある学校で、心の底から茶髪に染めたがっている高校生がいると想定してみます。

 

臆病なA君は、「茶髪に染めたいけど、先生に怒られたくないし、評価が下がるのも怖いから黒髪にしておこう」と考えるでしょう。

 

暴力的なB君は、体育館の裏に先生を呼び出して「先公!茶髪禁止なんて言ってるとブッ殺すぞ」と脅し、先生をリンチして茶髪禁止令を撤回させるでしょう。

 

非暴力のC君は絶対に先生を脅したりしないものの、先生の言うことにも従いません。怒られようと評価が下がろうと退学になろうと黒髪にはしません。

 

たとえ茶髪禁止令が生徒総会で多数決によって決まった規則だろうと、自分が気に入らなければ絶対に従いません。逆らって、罰を受けます。小学校の道徳の教科書的には、先生に忠実なA君が最も偉く、続いてC君、そしてB君が最もダメだとされるでしょう。しかしガンジー的には、C君が最も立派で、次いでB君、そしてA君が人として最もダメということになります。

どうしてそう考えるのかについて、反政府運動での事例を基に考えてみたいと思います。

 

「いまの政府は間違っている」と思いつつも、自分が処分されるのが怖いからといって政府の言いなりに行動するのが臆病なA君でしょう。そして将来「どうしてあんなことをしたんですか?」と詰め寄られると「命令に従っただけなので私に責任はありません。本当は私も内心では反対していたんです」と言います。

 

暴力的なB君は、政府に対する恨みからテロを企てるテロリストなどが該当するのではないでしょうか。

 

非暴力主義のC君は、テロは起こさないものの政府に従いもしません。刑務所に入れられても平然としています。南アフリカのネルソンマンデラなどが該当するのではないでしょうか。

 

こうして見ると、退学になっても茶髪を通す世渡り下手なC君こそが、いざという時に世界を変える力を持っているという感じがします。学校ではガンジーの非暴力不服従が「良い思想」として教えられる一方で、「ルールは守りましょう」「先生の言うことは聞きましょう」とも教えられています。

 

しかし

なぜそのルールがあるのか?

なぜそのルールを守らなければならないのか?

なぜ先生の言っていることが正しいのか?

という理由づけの説明がなく、単に「ルールだから守れ」「先生の言うことは従え」という教育の仕方をしていると臆病者に育ててしまうと思います。